痛い人=頑張り過ぎている人?!
「自分はこれでもかなり真面目に仕事に取り組んできた。だから自分に限って痛い人なんかじゃない!全然仕事しないあの人がよっぽど痛い人!」
そんなことを思った10年前。でも結果、自分が痛い人でした。失笑
10年前のワタシはそれはそれはポテンシャル高くて、やる気スイッチに何かわからない猛烈な火が灯っている状態。仕事人間みたいに自分のキャパシティを超えて頑張って頑張って頑張り抜いていた。頑張っていれば頑張っているほど認められたくて、しかも周囲もそうあるべきだと思っていたから、頑張らない人が許せなかった。
でも。
そのやる気スイッチが「やらなければならない」という犠牲で動かされているものだったら…。「仕事だから」「仕事はこうあるべきだから」と自分を抑制しているものだったら…。心はキツイと言っているのに、一生懸命にそれをプロ意識で払拭しているものだったら…。
それはただ周りを追い込んでしまう威圧に捉えられてしまうことがあるんです…。
仕事はこうあるべき、その思考が自分も苦しめてる
自分のほうが痛い人なのかもしれないと、周囲との温度の違いになんとなく気づき始めたとき「え?なんで頑張ってるワタシが?」と、腹立たしさしかなった。悔しくて。そんなわけがなくて。
でも…、本当は自分も苦しかった。
好きでこんなに頑張ってるわけじゃない。仕事だから…、仕事だからやってるだけ。本当はなんでこんなにやらなきゃきけないんだろう?って思ってる。なにもやらなくて一生困らないお金がもらえるんなら、こんなことしない。…って。
その苦しさ!そこが一番のポイント!なことに気づきました。
自分はそうやって自分を奮い立たせて一生懸命仕事をしているから、自分と同じくらい頑張って仕事をしていない人が許せない。だから自分はそうでないつもりでも結果、人にキツく当たってしまっている…。そんなときって自分でも気づかないうちに「自分が正しい」とばかりのオーラが出てしまっていて空気をピリつかせてる。そうすると、頑張っているはずの自分が輪を乱すことになってしてしまうのです。
好きなようにやってみたら?と解放してみる
自分を許してみてあげる、ってことにしてみました。
「仕事はこうあるべき」と思っている「あるべき」を「全てなくてもいい」と思ってみてください。できてもいいけど、できなくてもいい。認められてもいいし、認められなくてもいい。出世できてもいいけど、出世できなくてもいい。稼げてもいいし、稼げなくてもいい。
そうやって「できなくてはならない」と思っていた気持ちを、一回全て自分の中から捨ててみる。
そして、「本当にしたいこと」を思い浮かべて、したいことに没頭してみる。「しなければならない」ではなく「自分がしたいからやってる」と。このときに「いや!したいからやってるわけじゃないから!」とイラっとしたときは、まだ自分のなかに「しなければならない」が残っています。長年「仕事はこうあるべきだ」と守り続けてきたものに縛られています。なので、ひたすら「自分のしたいこと」に、やってみたいなとワクワクすることや方法に、没頭します。
そうすると、だんだんと縛られていた気持ちが解放されて、やわらかくなっていきます。人に強要することがなくなります。自分にも、人にも、「好きなようにやってみたら?」と許可できるようになります。人がどんな風に仕事に取り組んでいても「あ~そうなんだねぇ」と受け止められるようになります。
そんな風に解き放たれたとき、人から思いがけず一番もらいたい言葉をもらえました。「めっちゃゆるいのに、実はやることはできていて、でも人に気を遣わせないフランクさがある、めっちゃ付き合いやすいです」って。めちゃくちゃ嬉しかったです!だから、そう思ってもらえる人を1人でも増やしていけたらなーって思ってます。